ルチャリブレ馬鹿は今日もプロテインです

ルチャリブレ、プロレスのスペイン語記事を日本語訳して紹介します。

怪魚仮面フィッシュマンが死去

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(画像・記事元:superluchas.com ERNESTO OCAMPO)

 AAAの代表取締役ホアキン・ロルダン氏が、癌により未明にこの世を去ってから、午後3時頃、怪魚仮面ことフィッシュマンもまた、この世を去った。フィッシュマンはメキシコルチャリブレの数少ない生きる伝説の一人だった。メキシコルチャリブレ界全体が両者の喪に服している。

 恐らく、フィッシュマンと並ぶ功績を残した、もしくは残すであろうルチャドールはほとんどいないだろう。ゴライアス・レジェスとしてコアウイラ州のトレオン、そしてフアレスで、そのキャリアを始めたフィッシュマンは、メキシコシティではティタンと名乗った。その後、ドン・エクトールバレロ・メレ氏の目に留まり、かの特徴的な金色と緑色のマスクをかぶり、フィッシュマンとしてデビューした。その後、ずっと前からの友人こと、1971年、新聞記者のカルロス・エルナンデスバルデス氏により、オニイトマキエイをベースにし、金色を黄色に変更し、緑がより映えるデザインに変えられた。1975年、フィッシュマンは既にメキシコ中で良く知られていた。同年、モンテレイで行われたアルパ・ウェバーとジョセフ・モルナードとの試合の前に、ペロ・アグアヨとコンビを組、長い間、活動した。

 彼のマスクを有名なものにしたのは、1974年に行われた、エル・モナルカ、そしてドゥランゴ・キッドとのマスカラ戦だ。76年には、ファラオンとの血で血を洗う抗争を行い、マスカラ戦で勝利。1年後、メキシコルチャリブレの最も重要な出来事の一つ、EMLLがフィッシュマン、サングレチカナ、エル・コバルデによるマスカラ戦を開催した。コバルデが勝利したことにより、フィッシュマンとサングレチカナによるマスカラ戦が行われ、フィッシュマンはサングレチカナこと、アンドレス・リチャードソンに勝利した。

 その翌週、即座に組まれたフィッシュマンとコバルデのマスカラ戦では、アレナ・メヒコが満員状態になり、その試合でフィッシュマンはコバルデこと、ミゲル・アンヘルデルガドを破った。1週間で2試合のコントラマッチに勝利したことから、無敵の伝説VENENO VERDEと呼ばれることになる。

 フィッシュマンのキャリアの絶頂期は、EMLLを去りインディーとして活動することを決め、レイノーサ、トレオン、フアレス、モンテレイ、そしてティファナでの活動を中心とする、フランシスコ・フローレス氏によるモラ・プロモーションに所属することになった。

 新しい団体では、ペロ・アグアヨ、カネック、ビジャノIII、そしてドスカラスと並ぶ重要な選手の一人だった。マンネリ化に伴って、体格の大きかったフィッシュマンはウェルター級からライトヘビー級に転向し、UWAライトヘビー級タイトルを4度獲得、またWWFライトヘビー級タイトルも2度獲得した。また、1983年6月12日には、WWFジュニア級タイトルを賭けて、タイガーマスクとの試合に挑んだが、惜しくもベルト獲得はならなかった。フィッシュマンとタイガーマスクの試合は、カネックと藤波辰爾という怪物同士の試合がメインに組まれた興行のセミに行われ、新日による公開収録だった。

 80年代、フィッシュマンとペロ・アグアヨはパートナーであり、良きライバル同士でもあった。お互いの息子たちの代父であり、闘牛場の重い鉄製の椅子でお互いの頭を打つことにためらいもなかった。

 フィッシュマンは98年に同誌のインタビューに対し、

「1986年の戦いを乗り越えた骨が、まだ私の体に残っている、UWAライトヘビー級のタイトルを奪った時だ。もし、君が誰が最もタイトルを獲得したかどうかということについて質問するなら、私は詳しい統計は知らない。君にこれだけは保証できるということは、私とペロ・アグアヨはお互いを心から信頼しているということだ。ペロは俺が付けた傷跡と共に一生を過ごすが、俺も彼が付けた傷跡と共に一生を過ごした。」

 彼の最後の偉大な勝利は、約30年前にベンハミン・モラ・ジュニア氏による興行で行われた、レイ・ミステリオ・シニアとのマスカラ戦を制した1988年3月25日だ。

 1987年初め、フランシスコ・フローレスが亡くなり、モラ・プロモーションが消滅すると、フィッシュマンは、自分の役割が次の世代の選手の育成であると理解した上で、AAAに入団する。

 1999年、スペルアストロが共同開催したティファナでの興行では、スペルアストロ、リスマルク、ビジャノIIIとフィッシュマンが、マスカラ戦で激突。この試合はフィッシュマンにとっての最後の大試合であるとされていたが、驚くことにマスクを守ることに成功し、スペルアストロがマスクを脱ぐことになった。こうして、フィッシュマンは輝かしい一つの成功を失うのだった。

 1年後、パラシオ・デ・ロス・デポルテスで開催された、グランゲレロこと、アンヘルアルバレス氏が興した短命の団体GWASによる興行では、マスカラサグラダ、L.A.Park、シュー・エル・ゲレロとのマスカラ戦が行われた。試合はシュー・エル・ゲレロが負ける手筈となっていたが、会場は空席が目立ち、団体は選手への約束した支払いができなかったことから、舞台裏で議論が巻き起こり、試合は数十分にわたって遅延した。

 最終的にマスカラ戦は行われ、結果的に負けたのはフィッシュマンだった。ところが、団体はフィッシュマンに支払わなかったのである。団体は、自動車を売ったり、ありとあらゆる金目の物を売って金を作ったが、それは全てマルチビジョンの支払いのために費やされると、フィッシュマンに言ったが、難しいことに1,000件以上の訴えがあるだろうとのことだった。

 フィッシュマンはアレナ・ネサとトゥランシンゴでの興行で、GWASの興行のプログラマーとしての仕事を与えられ、同団体を訴えないことにした。その後、GWASは全ての責任者と共に消滅したのだった。

 21世紀に入ると、数多くのケガと、それによる欠場から、フィッシュマンの仕事は激減し、借金をしなくてはならなかった。彼を最も援助した人の一人がイホ・デル・サントであり、支払いを催促することもなかったという。

 最近では、愛人との間にできたフィッシュマン・ジュニアが彼の持つ問題の一つだった。彼の家族関係が話題に上り始めると、フィッシュマンは、フィッシュマン・ジュニアから名前を取り、別の息子に与えることにした。最初のフィッシュマン・ジュニアには、ブラックフィッシュとの名前を与えたが、肖像権が既にあるとのことで、フィッシュマン・ジュニアの名前はそのまま残ることとなり、フィッシュマンはストレスを抱えていたという。

 4月8日午後、フィッシュマンは心筋梗塞を発症し、クルス・ベルデにて治療が行われたが、帰らぬ人となった。7月5日には66歳を迎えるはずだった。

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