ルチャリブレ馬鹿は今日もプロテインです

ルチャリブレ、プロレスのスペイン語記事を日本語訳して紹介します。

グラン・アパッチェが大腸がんで死去

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(画像・記事元:superluchas.com Ernesto Ocampo)

 小柄な体格、そして彫の深い先住民の顔立ち、マリオ・バルブエナゴンサレスは、スポーツとトロピカル音楽を愛する、活発な少年だった。14歳の時、彼は小さなバンドでサルサを演奏しており、これが自分の仕事であると思っていた。

 コメタスアスレスⅠとⅡにルチャリブレのトレーニングに誘われた。元気が有り余っていたマリオは、プロになろうとはその時は思っていなかったという。1975年1月、ルチャリブレに目覚めたマリオは、まるでスポンジのように経験したものを吸収していった。

 同年8月、わずか8か月間のトレーニングの後、マリオはメキシコ州、テナンゴ・デル・バジェにあるサンティアギート・クアスステンコという小さな村で行われたルチャリブレの興行に、コメタアスルⅢとしてデビューし、対戦相手のフアニート・ラミレスに勝利した。マリオは試合で勝利した喜びよりも、対戦相手のフアニートが、すべてのルチャドールに家族ぐるみで挨拶をしていたこと、そして、エル・サントとも挨拶していたのを見たことに感銘を受けた。その瞬間、マリオはルチャドールとして生きる道を決心したという。

 マリオはその後、伝説のルチャドール達が、フリースタイルのレスリングで汗を流した、ブルーデーモンのジムで己の技術を磨くことにした。

 マリオは、仲間からアパッチェと呼ばれており、それを気に入り自らもアパッチェと名乗ることにした。また、メディアのインタビューでも自分が本当にアパッチ人であることを保証していた。

 ジムの中でも目立った生徒だったこともあり、インストラクターのアシスタントとなったマリオは、弟子を取り始めた。その中の一人である、ルイス、ガルシア・ベルガラは、彼が1981年4月18日グアナファトのトランダクアオでデビューさせた。ルイスは、バンカーと名乗り、借りたマスクで登場し、対戦相手のニキ・アビラに勝利。そうしてルイスは、後のシルエタとなるのだった。

 1984年、ラファエル・サラマンカは、ルイスとマリオをアレナ・メヒコに呼び、トレーニングを開始した。マリオは当時、プルマブランカ、もしくは、プルマ・アマリジャとしてデビューしようと考えていた。

 ところが、彼らは結局、EMLLのリングには登場しなかった。というのも、パビジョン・アステカのプロモーターであるモイセス・サラテが仕事を紹介し、両者はそれを引き受けたからである。ある日、マリオのタッグパートナーが興行に姿を見せず、その時、プログラマーのアントニオ・オルモスが、ルイスをマスカラなしで登場させ、マリオと共にグラン・アパッチェⅠ、Ⅱとして登場させることを思いついたのだった。

 パビジョン・アステカでの興行はテレビ中継も行われ、スペル・ムニェコ、スペル・ラトン、スペル・ピノキオ、リッキー・ボーイ、ロス・モイカノスなど、オルモスのアイデアで、数多くのルチャドールが輩出された。

 特に、ロス・モイカノスとはライバル関係を築くことになる。エル・トレオで開かれていたモラ・プロモーションの興行では、激しい試合を見せた。

 グラン・アパッチェⅡは本誌のインタビューに当時、こう答えている。

「全ての試合に全力で挑む。例え、テレビ放送がなくても、会場に女の子がいなくても、100%全力で試合をするんだ。今の若い人たちにはそれが足りないんじゃないかな。慎重になりすぎだ。彼らは、ただテレビ放送のために試合して、地味な会場では、同じように試合をしないんだよ。」

 グラン・アパッチェⅠはこう答えている。

「パビジョン・アステカに初めて登場したのは85年だったと思う。そこで、自分自身を知ったんだ。スター選手だったよ。メキシコシティから、レオン、サン・ルイス・ポトシまでの航空券を会社が買ってくれていたんだから。ティファナに着いた時、観客は俺たちを歓迎してくれた。わざわざ特別な興行を組む必要なんてなくて、俺たちアパッチェスとモイカノス、メリダのポリフォルム、ティファナのアウディトリオを満員にしたよ。苦労しなかった。」

 アパッチ族の歴史を読んだ後、マリオはアメリカの西部劇に登場するようなステレオタイプのネイティブアメリカンとして登場はせず、リアルな先住民として登場するようにした。チワワ、ソノーラ、アリゾナ、ヌエボ・メヒコ、そしてテキサスの一部は、メキシコの一部だった。グラン・アパッチェⅠはこう答えている。

「俺たちにはアパッチェ族の血が流れているんだ。俺たちのじいさんばあさん、そのまたひい爺さんやひい婆さん。アメリカ人の迫害から逃げてきて、北の荒涼とした大地に住み始めたんだ。俺たちの家族、記憶にない時間、もしかしたら、アジアかもしれない、アラスカから北メキシコにやってきて、そして今、8万種類の民族と混じった。その中で、アパッチェスとナバホスは最も重要で、純粋な種族なんだ。

 グラン・アパッチェは、マリセラ、そしてファビオラという二人の娘を授かった。1986年、わずか15歳の当時、練習生だったサンドラ・ゴンサレスと恋に落ちたグラン・アパッチェは、11歳の年の差があるにも関わらず結婚した。サンドラは、1986年ベラクルスのマルティネス・デ・ラ・トーレで、レディー・アパッチェとしてデビューし、ウルトラビオレンシアと対戦した。その後、アパッチェは娘のナンシーを出産するため、数か月間、リングから姿を消した。

 1987年、17歳になったレディ・アパッチェは、パビジョン・アステカに他のアパッチェスと登場した。

 パビジョン・アステカが消滅すると、アパッチェスはインディー団体で活躍するようになった。ところが、レディ・アパッチェがグラン・アパッチェと離婚してしまう。

 グラン・アパッチェは1992年にEMLLに参加すると、音楽好きであることを理由に、ロス・ルードス・デル・リトモを結成。アリ・ロメロ、クンフー、ブファロ・サルバヘ、アメリカ、ハルコンネグロ、マリオ・プラド、別の15歳を迎えた練習生であり、ラファエルバラダスの孫であるビビアナ・オチョア、バラダス、後のエストレジータと活躍する。

 1995年、グラン・アパッチェは、カルロス・マイネスのルチャ・リブレインテルナシオナルに参戦。目的はマイネスが日本のIWAと繋がっていることから、日本で試合をするためであり、目的は見事に達成。IWAではリオンとしてデビューしている。

 LLIが消滅すると、AAAに参加し、再びグラン・アパッチェⅡと会うことになった。アントニオ・ペニャは、彼らをチバス・ラジャダスⅠ・Ⅱとしてマスクマンとしてデビューさせたが、2000年に日本での試合のために再びCMLLに短期間ながら参加し、みちのくプロレスではグラディエーターとして、そしてCMLL日本ではキンバとしてデビューした。

 こうして、様々な目的を達成したグラン・アパッチェは、再びAAAに参加。アントニオ・ペニャは練習生のためのトレーナーになってほしいと願い、本人もそれを承諾。また、自身も再びリングに上り、ライバルと死闘を続けるなど、活躍を続けた。

 グラン・アパッチェは最後の瞬間まで、AAAに所属した。練習生のトレーナーとして、また、インディー団体とのAAAの代理人としての仕事もしていた。

 残念なことに、大腸がんと診断されたグラン・アパッチェは、賢明な治療を続けたが、進行を止めることはできず、最後は、電話にも応えることができないほどだった。

 グラン・アパッチェこと、マリオ・バルブエナは5月7日早朝58歳の若さでこの世を去った。

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